慢の限界

2020年に出会った言葉で最も印象深いのは慢の限界という言葉

 

思い返せば一番初めに慢の限界、慢というか、自分の実力、または理想と現実というべきか

 

はじめはサッカーだった。小さい頃からサッカーをやり続けていて、本当は下手だし途中から好きでも無かったんだけど、やり続けた。高校になり、これはレギュラーになれないどころか3軍のまま惨めな思いで過ごさないといけないという事がわかり辞めた。

 

次は受験勉強。

勉強は小中で躓いていたものの、頑張ればもしかしたらという気持ちがあった。

しかし2年の猶予があってもダメだった。

ここでは努力不足ややり方のおかしさなどは置いておく。一言で言えば結果を出せなかったという現実。競争に敗れた。

この時も悩み苦しんだな。毎日毎日勉強していても出来る様にならなかった。出来るようにならないから楽しさもわからなかった

 

そしてその次は仕事か。

まぁ広く捉えれば仕事も同じような感じだ。

自分の実力、関心、人間関係。全てにおいてこれ以上やっても惨めな思いを抱えながら生きる事になるだろう

 

という事で辞めた。

 

つまりパターンはいつも同じなんだ。

何か得たいものがある。それに向かって努力する(努力の量や質は議論しない。何故ならばそこには終わりはないから)、しかし得られない。限界を感じる。楽しくなくなる。

そんな感じ

 

今回の仕事は今まで数十年かけてきたそのパターンに対してほとほと心の限界を感じたのだと思う。

そして学生時代と異なり、別の事で…というような代替もなく、一方的に落ちていくだけだろうなと感じると限界というか、大袈裟に言えば死にたくなる

 

僕は何を振り返らないといけないか

努力の量や仕方の話なのか、それともそもそも選ぶ種目。サッカー、勉強、今の仕事、が違ったのか、それとも別の何かなのか。

 

共通して言えるのは、サッカーも勉強も今の仕事も、心から好きではなかったということ。

どこか世間体や惰性だった。

 

しかしこの議論を自分の中に仕掛けると

では何が好きなの?となる。

 

そして何が好きか。という事が無いことに気づく