熱下がる

昨日はなぜか色々文が書きたくなった

 

昨日は熱があって手元の体温計では39度超えた。39度超えるとかなりしんどい。

 

今は熱は下がる。しかし万全ではない。多分また熱は上がる。

 

昨日は夢は見なかったか、わからないけどあまり覚えていない。

体調が悪いと体調に気を取られるので孤独感に苛まれるのは和らぐのかも。今日は寝起きの孤独感は感じない。

 

さて昨日何かでふと気づいた事があってメモする。

何にせよ突き抜けていることが新しい道を作るという事について

 

突き抜けるというのは、作為的に突き抜けようとすることと、突き抜けてしまっている事とあるように思う。前者は計算が働いているため本当の突き抜けではない。

 

突き抜けるとは良い事、肯定的な表現で使われるが、決してそうではない。

突き抜けるとは正に良くも悪くも極端だという事。

 

例えば人は誰しも自分勝手な側面はあるが、自分勝手さが完全に突き抜けるとそれは新しい才能になる可能性は秘める。

 

なぜならば人の話を聞かないし、人のことはどうでもいいからだ。それは別に褒められたことでは無いしむしろ人格的には未熟なのだが、自分勝手な面が完全に突き抜けている人はある種才能と個性に変わる。

繰り返すが褒めても貶してもいない。事実を言う。

 

適当や例が亀田史郎さんのように俺は思う。

 

彼は中途半端な自分勝手さではないからあの結果や話題を収めた。正に突き抜けた人なのだ。

 

しかし別にそれは褒められたことではなく、彼の性格や欲しいものと、ボクシングという市場や畑がマッチして、その突き抜けた個性を生かせた場が出来たのだと思う。

逆に彼に農業などやらせても全く才能を発揮しないどころか、周囲も大変だろう。農業に必要な能力と彼の欲しいものがマッチしていないし、農業に必要な能力と彼の突き抜けた面が生かされない。

 

なぜかこんなような事が思い浮かんだ。

つまりは種と畑なのだ。その人の本性(種)と畑(その人が生きる場)の両輪で個性は発揮される。

そして個性の発揮や結果が出るかどうかは、あくまで人間世界の基準の優劣の話。もっと広く深く大局的に見れば、その行為やその個性や結果が本当に尊いのかは見えてくる。

 

大切なのは種はなんなのか。自分の本性を見抜くことと、その本性が生きる場に自分の身を置く事だ。