ヴィーガン 2

ヴィーガン について

 

俺自身はヴィーガン でないのに、ヴィーガン について

 

…?

 

と思ってしまう事を書く

 

それは前述したように『なぜヴィーガン なのか』のなぜが、動物搾取反対では無い人が、動物搾取であると自分を言い聞かそうとしてどうしても整合が取れていない事だ。

 

これは根っこの部分なので後からそうしようと思っても中々変えることが難しいのだ。

 

そこに少し客観視する俺はモヤモヤを感じる事があるのだ

 

特にファッション、美意識、健康、などで菜食を選択した人は、その思想的カッコよさからヴィーガン を名乗り、そして実践する

 

実践するのは凄いし、行動に移しているのは尊敬するのだが(この辺りは芸能人的な人はブレブレになっている)やはり根っこが本当に動物に対しての慈悲では無いのでどこか浮つき感じてしまう。

 

なんというか、動物性のものを食べないとか、着ないとか、そうゆうわかりやすい事を徹底しようとはするのだけど、そうゆうわかりやすいTodo的な感じが本質からズレてしまっているような。言い方を鋭くすれば、その行為自体がファッション的な感じで周りに見せつけているような。

 

勿論前述したように、仮にエセであっても動物搾取はしないわけで、動物搾取する人よりは余程行動力もあり、立派なのだけれども。

 

俺がヒッピー村で暮らしていた時思ったのは、一見踏み込む前までは思想が同じだと思っていた事が実は袂が異なった事の残念さだ

 

これは思想系には実は多いのでは無いか?

咲いている花は同じに見えて球根は実はまるで違うなんて事は結構ある。

 

まぁ球根を揃える必要もないのだが。

 

似ているけど違うというのが1番心が離れやすいかも。全く違うならば多様性として逆に受け入れ易いという変なバランスもある。