まず俺はマスクをしないし、つける意味もないと思う。という意見を持っている
しかし街を歩けば、未だ多くの人がマスクをしている。
マスクをしている人は、詳細は個々人何か理由があるのかも知れないからわからないながらも、多くはコロナが理由だろう
マスクというものが、そもそもコロナ予防に効果があるのか?という1番の問いがあって、そこの信憑製が疑わしい。
しかし仮にもしコロナの予防に効果があるとする。その場合、その他の人体への悪影響があるものについて、マスクをする人はどう考えているのだろうか。
例えば食生活。食品添加物とかは彼らは摂取するのだろうか。
そういった、もしそれを考えるならば議論をしだすとキリがないぐらい理屈が通らなくなるだろう
ただこれは自分自身にも言えて、俺が何気なくやっている事や持っているポリシーも、それをするんやろならば、あなたはこうしないのですか?と言われると論理破綻している行動など沢山あるだろう。
そこはお互い様なのかも知れない。
ただここで思う事は、マスクを着けている人っていう風に一括りにしてしまうと、彼らはある種、そのような世間に流された状態で物事を測っている人なのだと思える。
本当か嘘かではなく、基準はみんながどう思うか?という事が基準なのだ。
そしてそれが飛躍し、みんなのために私はマスクを着けるのだ、という歪んだ思いやりになり、そしてマスクを着けない人は周囲のことを思いやれない自分勝手な人だ、という感じになっていく
しかしそれが『大衆』なのだ
ほとんどの情報を新聞の情報によりコントロールされ、またはそれしかソースがなかった第二次世界大戦のとき、おそらく同じような大衆の動きがあったのだろう
戦争に反対する、マスクを着けない、人は非国民として目の敵にし、そして村八分にする。
現代よりも村八分にされたらそもそも生存すら出来ない社会環境の中で、盲目的に大衆意見に従う。その中で自分の考えを押し通す事などできなかっただろう。
それが社会であり、社会の評価なのだ。
だからとても怖い