ヴィーガン

ヴィーガン について

まず俺はヴィーガン ではないが、ヴィーガニズムは頭では理解しているつもり。

そして完全菜食でヴィーガン のヒッピー村で1年ぐらい暮らした経験がある。

 

という経験からヴィーガン についての考察をする。

 

まず興味深いと思ったのは、ヴィーガン の中でも実は別れている事だ。何が別れているのか。

 

何故ヴィーガン なのか?という点だ。

実はここが理解できると様々な議論とかもスムーズになる。

 

よくヴィーガン が相手の反論の余地を逆に与えてしまうのはヴィーガン を名乗ってはいるが、何故の部分が実はヴィーガニズムになり切れていないから論理矛盾が起きてしまう事にある。

 

まずヴィーガニズムとは、あらゆる生き物を可能な限り殺生せず、傷つけず、搾取せず、共存して生きようとするライフスタイルと思想を持つ人々。だと思っていいだろう。簡単に言えば。

 

だから何故ヴィーガン なの?と聞かれた時に、このような感じの回答が来ない場合厳密にはヴィーガニズムは持っていない。

 

パターンでくくると主に4つの何故がある。

 

環境保護を理由とする

②自分、または人間の健康を理由とする

③スピリチュアルや精神性、修行を遮るという理由

④動物と共に生きる(ヴィーガン

 

実は厳密な菜食主義や動物搾取反対者でも根っこを見ると何故その主張をするのかが見えてくる。

①②③を否定するわけではないが、①②③と④の決定的な違いは、①②③は結局自分(人類や人間)のため、④は自分も含んだ他の生物の為。という視点が異なる。

 

実はここは大きく異なり、ヴィーガン を表立って表明しているのにも関わらず、根っこは123だったりするから世間で批判をされる。

そしてヴィーガンの中でも一枚岩になり切れない。変な言い方だが味方が最大の弱点を作るのだ。

 

①は食肉にかかるコストや汚染を問題にする。それは逆に言えば環境負荷やコストが減れば動物を搾取し続けてもいいという論理となる。

 

②実は2も多い。元々健康にとても興味があるため、菜食だった人が、自分が食べないからついでにヴィーガン であるという名乗り方をする事がある。(実はこれは意外と多い)

この場合、やはり関心は自分の健康面や美意識面にあるため、動物園やペットショップなど、食とは関係無いような動物搾取については盲点となる人が多い。

発言などでも注意深く聞いているとよくわかる。そして自分の健康をあまりにも意識する生き方はある意味ではエゴが強く、頑固な人が多い。そして自分の健康のためなのに動物を守るという偽善的なファッションもこの手の思想の人には付きまとっている印象。

 

③スピリチュアルや宗教的な人は微妙なラインだ。

例えばヨガの修行者はヤマという戒律があり、その中で可能な限りの殺生の禁止、勿論動物性のものを摂取する事は禁じられる。

この場合、なぜ禁じているのか?という何故の部分を真に理解し、動物などの生き物に慈悲や慈愛を持ったために殺生を辞めるという事であればヴィーガン と言える。

しかし肉を食べると性欲が高まり修行に妨げになるから、とか自分の霊性が下がるから、という自分の進歩を目線にしているならばヴィーガニズムとは言えないだろう。

それは自分のためだからだ。

 

上記整理するとわかりやすいだろう。

実はこのようにカテゴライズがされる。

勿論全ては移り変わっていて、初めは自分の健康のために菜食になったが、菜食になった事で菜食の情報が増え、その中でヴィーガニズムを本当に受け入れて行ったという人もいる。

だから綺麗に分けられるものではないと言えばない。

 

しかしカテゴライズするとわかりやすいように、実は環境保護を理由とした場合、それがその人の動機なので様々な事が矛盾するわけだ。

 

さて、という如何に当事者でない俺がこんな事を書いてしまったのだが、最後に本当のヴィーガン 活動家の方が言っていた事で感動した事を書く。

 

俺が質問したわけではないけれど、このようなエセヴィーガン が増える事についてどう思う?世間に誤解がより生まれるんじゃないか?

もいう質問に彼はこのように答えた

 

どんな理由だろうとまず動物搾取が今日よりも明日減るのであればそれでいい。

 

そして仮に間違ったヴィーガニズムの伝わり方でも一般の人がそもそもヴィーガニズムという言葉に触れる事が増えればそれでいい。

真贋はいずれわかるものだから。

 

という話だった。

俺のような知的議論ではなく、本当に動物を救いたいという視点だ。

 

恥ずかしくなった