なぜ宗教に行き着くか

宗教といっても色々だから一律に語れはしないが、なぜか宗教にのめり込んでいく人の心理を考えたい

 

ここでは宗教の中でも原始仏教にハマる人を考える

 

僕が思うに宗教は一般社会とは異なった価値基準や考え方や理屈があるからだと思う

 

一般社会は、まず人間は利己的である。という前提に立って、自分や自分に関係する周囲の人に利があるようしたいと本能的に思っている

 

自分の利というのが最小単位だが、自分一人で生きているわけではないから、自分の周囲にいる人、自分に関わりがある人、もっと広く捉えれば同じ民族を、守ろうとする

 

そしてその『利』の中心にあるものがお金であると思う

 

資本主義の共通的な価値基準はお金であり、お金を価値の変換に使っている

 

お金は直接的な部分もあれば、根っこはお金なのだけど表層的には別の要因で動くこともある

 

社会というものもお金をまず中心軸に置いておきながら、どうすれば1番発展できるか、お金が儲かるか、を考えている

 

そしてそのコミュニティも、お金を稼ぐ、発展するために合理的に考えられる

 

人に優劣をつけ、優が劣をマネジメントし、評価する

 

その中で社会階層というものが決まっていき、お金を稼ぐための合理的な組織が出来上がる

 

良し悪しではなく、社会の成り立ちとして事実はそうではないか。僕にはそう見える

 

相模原での事件について、犯人のやっている事は許されることではないし、肯定はできない

 

しかし彼のやっていることの要素や考え方というは正に資本主義経済の考え方と同じであるとは思う

 

就職でその人に優劣をつけ、会社内で優劣をつけ、必要不必要を突きつける。

 

それと障害により意思疎通が取れない人を排除することは何が違うのだろうか。

 

僕には同じ事をしているようにしか思えない

 

または心は同じであるように思う

 

と少し宗教の話から逸れたが、なぜ宗教に行き着くかに少しずつ戻す

 

つまり人間の欲というものを中心に多くの人がその欲を享受できるようにしようとすれば、資本主義というものはとても良いシステムであると思う

 

優が劣をマネジメントすることによって全体の生産性が上がるし、競争をする事で更に切磋琢磨をして質が上がり続ける

 

それにより、優も劣も恩恵を受け、欲を満たしやすくできる。安全になり、便利になる

 

一見素晴らしいシステムのように思う

 

しかし良い事には必ず影も出来る

 

ある種人間に価値に経済的な優劣をつけることでもある

 

価値のあるとされた人間はともかく、その価値基準のもと価値がないとされた人の心は暗い影をつくる

 

また優が劣を支配できるということは実は優により多くの欲を満たせるようにすることができるシステムでもある

 

一部の優に富を集め、その他劣はそれに見合った富を得ることになる。

それに見合った富とは、富を得られないとも言える。それがホームレスだろう

 

こういった生活の大前提となるルール設定そのものに対してうまく合わせられない場合に、宗教というものがうまくハマるように思う

 

その他の宗教は知らないが、少なくとも原始仏教においてはその欲望を埋め続けること、永遠のレベルアップRPGそのものを苦(ドウッカ)なのだとされる

 

そしてそのRPGに勝ち続け欲を満たし続ける事が出来た人生であっても輪廻転生でまたレベル0から開始するというのが輪廻転生の考え方だ(この辺りの理屈よくわからないのと、あまり信じてもないが)

 

つまり世の中で完全に当たり前だとされる価値観に対して一石を投じ疑問を投げかける側面が原始仏教にはある

 

悩みがスタートとなり仏門が開かれると聞いた事があるが、悩みの大元はこの社会のルールにあるのではないか。そしてそのルール設定以外の悩み解決が仏道にある

 

一旦疲れてきた

 

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