わかっちゃいるけど辞められないという本質

僕は人の悩みのなど既にある程度パターン化出来るのではないだろうかと思っている

 

具体レベルもパターン化できると思うが、抽象化すればほぼ何かのカテゴリーに当てはまり、そしてそのソリューションのパターンも限られているんじゃなかろうか。パッケージ的な

 

少し前にはまり込んでいた仏教もそうだ

 

人間の苦について分類化して、それについての深掘りと考察。

そして解脱・涅槃というソリューションの提供だ

 

解脱・涅槃は世間一般的には胡散臭いが極めてロジカルだと思う

 

そこでふと思う

 

つまり最低2,500年以上も前から人の悩みの種類などカテゴリー分けは終わっており、それに対してのソリューションも提示されている

 

では何故人の悩みは無くならないのか。

つまり原因がわかっても、課題がわかっても解決できないのが人間だからではなかろうか

 

わかっちゃいるけど辞められない

そんな事例山ほどあるだろう

 

わかっちゃいるけど、塩分取りすぎとか

わかっちゃいるけど、怒ってしまうとか

 

わかってはいるのだ。

わかった上で出来ないのだろう

 

それの究極が仏教なんじゃなかろうか

 

仏教を真面目に勉強すればその論理的な積み上げや、提供しているソリューションに驚く

 

しかしそのうちそれは不可能な事だと気づく。そして解脱している人などいないと知る

 

大なり小なり、わかっちゃいるけど辞められなくて悩んだり、課題を抱えたりしているんじゃないだろうか

 

だから悩みの分類わけや、ソリューションを提供しても結局意味がない

何故ならば実行できないからだ