孤独でいると人と接したくなる
しかし接するというのはリスクがある事なのだと改めて思う
ある掲示板に僕は相談事を書いた。相談内容は心についてではなく、このアプリケーションを今後数年先も使うためにはどのパソコンを買えば良いか?という内容だった。
僕は現状やニーズを書いた。簡単に言えば
・このアプリが使え
・16GB以上で
・軽くて、小さくて
・○円程度の予算
という4要素に当てはまる、またはそれに近い要件を満たしたパソコン(CPUとOS)を紹介して欲しかったのだ。
しかし予想に反して返ってきたレスポンスはパソコン用語とカタカナ用語が満載の文だった
僕は二つ思ってレスを書いた
・つまりこのパソコン(OS・CPU)が良いなど結論を助言して欲しい
・専門用語はなるべく使わないで欲しい
と感謝を込めて、アサーティブに書いた(つもり)
しかしそこから今度は僕のパソコン知識の無さを揶揄したり、または専門用語を使わず簡潔に結論を教えて欲しいと要望を伝えても、ワザとなのか、こちらの視点に立てないのか、より難解な言い回しでコミュニケーションを取ってきた。
僕は嫌になりこれ以上相談を持ちかけるのはやめようと切った。
その後パソコンショップで僕はお客として行き、全く同じ相談をした。そしたら二つ返事で僕の答えて欲しいと思う情報を得ることができた。
その条件下の中であれば、Windowsならこれで、MacBookならこれで…という感じ。
正に僕が想像していた期待したレスポンスだった。
この二つの違いは何だろうか。
大前提は僕がお客なのか、という点。もう一つは顔が見えないという点。この2点が大きい。
やはり掲示板というのはあくまで趣味やボランティアで書き込みに返信をしているので、僕に気を使う必要も無ければ、僕の視点に立つ必要も無い。わからなければお前が自分で調べろよというスタンスで専門用語を連発する。そして匿名で顔も見えなければ、そこにブレーキは無い。
その点お店は全てが真逆だ。僕が知識に疎い事を伝えれば僕の目線に限りなく立って話そうと努めて下さる。
次に考えられるのはスタンス面ではなく、能力もあると思う。相手が何がわからないのか、わかるのか、を相手の視点に立って慮るには色々な能力が必要で、加えてその上それを踏まえてわかるように発信するにはより高度なコミュニケーション能力が求められる。
残酷ではあるが、この能力が無いと相手には伝わらないだろう。スタンスは前提として必要だけれど、スタンスがあれば出来るかという問題ではなく、能力が必要なのだ
と最近あったエピソードを書いたが、表題に戻ると
僕はこの掲示板のやりとりで精神的に疲れを感じた。多分2日間ぐらいは実は疲れていた。
掲示板上で僕の知識の無さを揶揄したり、またはわからないと言っているのに、更にわからないような言い方で被せてきたり…
勿論僕は教えを乞う側であり感謝は必要なのだけれど、その発信者のコミュニケーションにイラついた。そしてその背景にある、人を馬鹿にしたような人格がチラつき嫌になった。
つまり僕は人が根本的に好きでは無いのかも知れない。
勿論気持ちの良い対応を受けて気分が良くなる事もあれば、予期せぬ対応で落ち込み悲しみ、苛つく事もある。
僕はまたこの経験により、人と接する事に恐怖というか積極的になることへの躊躇が生まれるだろう
嫌な気持ちになるぐらいならば始めから関わらない方がいい。そんな感じ
同意語ではないけど学習性無力感という言葉が近いのかも知れないなとふと思った