父の仕事は警察官だった。昔
交通課、偉い立場では無かっただろう。
こんな話を聞いた
飲酒運転をよく言えば無くすため、違反切符を切るために結婚式会場の隣で検問を行ったことがあるようだ
上からの指示で
飲酒運転はいけない。これは事情は考慮せずダメな事である
しかし一生一度の晴れ舞台を祝った帰りの道中に警察が待ち構えていて飲酒検問されたらどう思うか
飲酒運転をしていたらまだいいが、していない人も疑い調べるわけで、していない人からは一言言いたくもなるだろう。高揚した気持ちも台無しだろう。
少なくともその仕事においてはその場では感謝はされない。広くは社会全体のためには良いのかもしれないが。
警察のようにトップダウンの組織ではそれがしたくないからやらないという個人の自由にはならないだろう
父も嫌だったはずだ。仕事としてやっているに決まっている
父は警察官という仕事に対して嫌悪感を持っていたようだった。愚痴は話すが誇らしいというような気持ちがある事は見せた事がない。
正確には嫌悪感というよりも無感情無関心という感じに見えていた。ただお金を得るためにそこに属していたというような感じだった
僕はこの話を思い出すと色々な観点で父という人物や仕事というものについて考えてしまう
一つはその様な好きではない、誇らしいとも思えない仕事をし、僕らを育ててくれたという事。有り難いとしか言えない。自分の人生を人に捧げてくれたんだなと。感謝。
もう一つは父にとって誇らしくもやり甲斐もない仕事をやり続けた人生というのはなんだったんだろうか。という観点。大半の時間を使う営み。それについての自分なりの意味付けや誇りが無い状態で毎日を過ごすということは心に何かしらの変調が起きてもおかしくないだろうな
。まぁやり甲斐が無かったかどうかの心の底はわからないけれど
もう一つはとは言ってもその人生を選択したという自己責任からはやはり逃れられない
父からよく世の中というか人への恨み節を聞くことがある。
僕はいつもそれを聞き嫌な気持ちになるのだが、その仕事をすると決めたのは誰か。という事をどこか引き受けきれていないのだと思う。
何となく自分に似ている人の事を見て僕は考え込んでしまう