仏教、解脱、お金

僕は仏教を学んで約3年経った

 

なので仏教の事を分かっている。とまでは言えないけれど概要のようなものは何となく理解してきている

 

というレベル感で今思うことを

 

仏教の智慧というのはすごくいいもので生きる上で学び取り入れることは非常に良いと思う

 

変な事やおかしな事などはないように思う。

セラピー的に取り入れる上では無害だし、有益だと思う。

 

しかし、あくまでも智慧として取り入れる、セラピー的にとらえておく、というレベル感においてだ

 

僕は仏教を学んでいてどうしても矛盾に感じてしまうことがある。

 

それは解脱とお金。この2つだ

 

まず解脱についての矛盾は、そもそも生身の人間で解脱している人は誰なのか、または解脱している状態とは現実の人であればどんな状態なのか、そもそも解脱しているというのは誰がなんの基準で判断できるのか。

 

そこが凄く曖昧であると思う。

宗教団体で自分は解脱しているという教祖とそれを信じている信者がいる

 

それはそれでいいと思うのだが、それは解脱している証明にはなっておらず、単に信仰しているということではないだろうか

 

証明というのはその信仰をしている人だけがそう思うというのではなく、信仰していない人でも客観的に見て解脱していると判断できないといけないと思う

 

要するに科学的ではないように思う

 

また解脱というもの自体が人間が人間的に生きる、思う、感じることから超越する状態となる事だ、と僕は解釈している、という状態を本当に生身の人間が成し得れるのか、そこが冒頭の疑問にも戻るが不可能なのではないか。と思うポイントである

 

つまりは概念レベルでこうゆう人間になれば本当の幸福を得れる、または苦しさから解放される、というものが確立していたとしても、それになることは現実的には不可能なことなのではないだろうか。

 

それがまず一つ目。

 

二つ目がお金

 

僕が接した仏教を提供している側の方、つまり信者や学ぶ側ではなく、坊さんや教祖という側の人は皆お金をとっている、またはお金を取らなくても別に収入を得る手段を持っている人だった

 

これは解脱についての疑問にも通じるが、お金というのは人間のわかりやすい欲の形だと思う。

 

仏教を伝える側でそれを元にお金を稼いでいるという事はつまりは仏教コンテンツをビジネスとしているのは事実でそれで金を儲けている

 

また、僕の学んでいた坊さんは著名な人で本を何十万部も売っていた人だった、その人も仏教コンテンツを元に本を書き儲けているわけだし、清貧な生活をしていると主張しても5,000万以上の資産があること、またそれを布施して生きているわけではない限り、結局お金の執着からは離れて生きてはいないという事だ

 

そしてその疑問に対しての回答である信者の人からこう返ってきた

 

信仰を広めるためには今の世の中のルールでお金がないと広まらない、つまり経営が出来ないとインパクトが出せない、私欲のためにお金を集めているのではなく、より教えを広めるためにお金を集め、組織化し、経営し、という方法をとっている

 

と言われた。

その理屈は納得できるのだが、僕はその一員にはなりたいとは思わない

 

またそのごもっともなような理屈も解脱していない人間が集まって行っているものである限り、欲の渦は渦巻いているのではないだろうか。と思ってしまう。

 

話を戻すと僕は仏教の智慧というものはとても良いものと思っており引き続き勉強をしていきたいと思っている

 

しかし一方で生身の人間が人間に伝え教えているものだから色々なほつれがあったり矛盾があったり、合理化したり、あるんだろうと思う

 

なので距離を保ちどこかで、所詮その程度のものと絶対視せず付き合うレベル感でいることがよいのではないかと思っている

 

ハマり、期待を持ち、絶対視した時におかしさが始まるのではないかと思う

 

おかしくなり始めていた自分自身がそう思う