誰でもできるという言葉の残酷さ

僕は英語の勉強を続けているが今ひとつ成果が出ていない

 

確実に進歩はしているものの、いわゆる平均というものには遠く及ばない

 

何かの記事で読んだのだが、日本人のトイックを受けた人の平均点は520点ぐらいのようだ

 

僕は300点程

 

520点というスコアは僕の感覚ではかなり高い。レベル感で言えば日常的に話すレベルは完全にクリアしてるいだろうし、語彙力も4,000〜5,000語は理解していると思う

 

という感覚が520点

 

それが平均なのだ

 

僕は受験勉強や留学経験という土台があり、半年間それなりに毎日勉強を重ねて300というスコアであった

 

この結果を踏まえて僕は少なくとも誰でもできることかもしれないが、僕はそこに長所はないのだろうなと思う

 

僕が母国語の日本語を話せるように、コツコツ英語に触れる環境を整えれば多分英語を話せるようにはなると思う

 

が習得するにも能力差はあるだろうし、それは誰でもできる物ではないだろう

 

時には誰でもできるとか、能力に差などないというのは何を根拠に導き出された解なのだろうかと思う

 

能力にも差はあり、誰でもは出来ない。

その方が救われる

 

そういえばダイエットの事で気持ちが楽になることを聞いた

 

まぁ普通の食生活をしながら1キロ脂肪を落とそうと思ったら約100キロ走らないといけないのだと。

1日10キロで10日間。毎日10キロ走っても1ヶ月で3キロ。なのだそうだ

 

これは思った以上に痩せないのだという事が理解できた。

 

気持ちが楽になった。

誰でもできるというのは残酷だ

 

10キロ痩せたいと思う人は1,000キロコツコツ走ってというのは誰でも出来る事だけど誰でも出来る事なのかと思う